最近みたDVD
「BEING THERE」
「ピンク・パンサー」のクルーゾー警部役で有名なピーター・セラーズの、晩年の主演作です…邦題は「チャンス」、先日の「リトル・ロマンス」と同じ'79年の映画ですが日本での公開は'81年だったようです。
本作を観たのは思い出せないほど昔の事で、おそらく昼間のTV放送ではないかと…正直「古い時代のユーモア感覚で描いた寓話」という印象しかない割に、不思議と記憶に残っていて。
少なくとも、観たのは共演したシャーリー・マクレーンが後に書いた「アウト・オン・ア・リム」を読む前でした…著書の撮影裏話に(いつか観返そう)と思いながら今に至った次第です。
ピーター演じるチャンス・ザ・ガーデナーは、正確には庭師として働いていた訳ではありません…おそらくは草木の世話をするチャンスを、屋敷の主が好きにさせておいたのでしょう。
物心ついてから一度も屋敷の外に出ず、TVを観て過ごしてきたチャンス…主の死によって否応なしに新たな人生へと踏み出しますが、彼に出会った人々は世間を知らないチャンスの言動をめいめいの尺度で勝手に誤解していくのでした。
最初に出会うのはシャーリー演じるイブ、彼女は富豪の妻で先ず彼の名を“チャンシー・ガーディナー”だと勘違いします…執拗に写るTV画面、これも暗喩?
いわゆる賢人とされる人は往々にして、喩え話をするという事になっています。
実は噛み合っていない会話なのに、老紳士チャンスの超然とした振る舞いから相手は仏教問答のような意味を見出だして彼を特別視するのです…教養ある人々は彼を決して変人とは見なしません、あるいは自らの教養や寛容さを意識させられるからチャンスの言動をユーモアやメタファとして受け取るのかもしれません。
本当は読み書きすら出来ない彼を巡る憶測の渦に翻弄される人々、そしてイブ…観客にも、チャンスが実はTVのように空虚な人物では?と思わせておいて“唯一のチャンス”は人知れず奇蹟と共に去るのでした。
結局、彼は神の御子だったのか…それとも単に軟禁状態のまま老いてしまった私生児に過ぎなかったのか?
シャーリーは「雨の車内で会話する場面の撮影時にピーターが前世を語っていた」と著書に記しています。
実質的には遺作となってしまった作品の、やや神秘的にも捉えられ得る物語の現場でそのようなエピソードがあったというのもまた不思議で興味深いものです。
エンドロールがNG集というのは本作にそぐわなく感じましたが、劇中では感情の起伏を表情に出さないピーターの柔和な笑顔が見られて妙にホッとしました。
人は見たいように見る、そういう事なのでしょうか?
時折トンチキな映像で笑いを誘い、時には彼の言動に意味をもたらすTVの映像は絶妙ですな…また彼の実像を知っているにも関わらず誰からも注目を浴びない人物が貧しい黒人女性である事にも、何かしらの意味を見出だしたくなります。
富豪の遺言「人生とは心の姿なり」は名言ですな。
ところであの頃に女性のマスターベーションを描いたのは、演じたシャーリーも勇気が要ったでしょうが凄いよな!
チャンスが初めて屋敷を出るシーンで効果的に流れた「ツァラトゥストラはかく語りき」は、CTI在籍時のエウミール・デオダートによる編曲&演奏だそう。
追記:Wikipedia情報によれば、「ホンキー」って言葉は、白人を侮辱する意味のスラングだったのね?
それと“英語タイトルの「Being There」は、ドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーの未完の主著『存在と時間』から採られている”んだそうで・・・先日の「リトル・ロマンス」と、偶然とはいえハイデッガー繋がりとは妙な気分です。
→〈MGM/ユナイト〉関連記事
「ピンク・パンサー」のクルーゾー警部役で有名なピーター・セラーズの、晩年の主演作です…邦題は「チャンス」、先日の「リトル・ロマンス」と同じ'79年の映画ですが日本での公開は'81年だったようです。
本作を観たのは思い出せないほど昔の事で、おそらく昼間のTV放送ではないかと…正直「古い時代のユーモア感覚で描いた寓話」という印象しかない割に、不思議と記憶に残っていて。
少なくとも、観たのは共演したシャーリー・マクレーンが後に書いた「アウト・オン・ア・リム」を読む前でした…著書の撮影裏話に(いつか観返そう)と思いながら今に至った次第です。
ピーター演じるチャンス・ザ・ガーデナーは、正確には庭師として働いていた訳ではありません…おそらくは草木の世話をするチャンスを、屋敷の主が好きにさせておいたのでしょう。
物心ついてから一度も屋敷の外に出ず、TVを観て過ごしてきたチャンス…主の死によって否応なしに新たな人生へと踏み出しますが、彼に出会った人々は世間を知らないチャンスの言動をめいめいの尺度で勝手に誤解していくのでした。
最初に出会うのはシャーリー演じるイブ、彼女は富豪の妻で先ず彼の名を“チャンシー・ガーディナー”だと勘違いします…執拗に写るTV画面、これも暗喩?
いわゆる賢人とされる人は往々にして、喩え話をするという事になっています。
実は噛み合っていない会話なのに、老紳士チャンスの超然とした振る舞いから相手は仏教問答のような意味を見出だして彼を特別視するのです…教養ある人々は彼を決して変人とは見なしません、あるいは自らの教養や寛容さを意識させられるからチャンスの言動をユーモアやメタファとして受け取るのかもしれません。
本当は読み書きすら出来ない彼を巡る憶測の渦に翻弄される人々、そしてイブ…観客にも、チャンスが実はTVのように空虚な人物では?と思わせておいて“唯一のチャンス”は人知れず奇蹟と共に去るのでした。
結局、彼は神の御子だったのか…それとも単に軟禁状態のまま老いてしまった私生児に過ぎなかったのか?
シャーリーは「雨の車内で会話する場面の撮影時にピーターが前世を語っていた」と著書に記しています。
実質的には遺作となってしまった作品の、やや神秘的にも捉えられ得る物語の現場でそのようなエピソードがあったというのもまた不思議で興味深いものです。
エンドロールがNG集というのは本作にそぐわなく感じましたが、劇中では感情の起伏を表情に出さないピーターの柔和な笑顔が見られて妙にホッとしました。
人は見たいように見る、そういう事なのでしょうか?
時折トンチキな映像で笑いを誘い、時には彼の言動に意味をもたらすTVの映像は絶妙ですな…また彼の実像を知っているにも関わらず誰からも注目を浴びない人物が貧しい黒人女性である事にも、何かしらの意味を見出だしたくなります。
富豪の遺言「人生とは心の姿なり」は名言ですな。
ところであの頃に女性のマスターベーションを描いたのは、演じたシャーリーも勇気が要ったでしょうが凄いよな!
チャンスが初めて屋敷を出るシーンで効果的に流れた「ツァラトゥストラはかく語りき」は、CTI在籍時のエウミール・デオダートによる編曲&演奏だそう。
追記:Wikipedia情報によれば、「ホンキー」って言葉は、白人を侮辱する意味のスラングだったのね?
それと“英語タイトルの「Being There」は、ドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーの未完の主著『存在と時間』から採られている”んだそうで・・・先日の「リトル・ロマンス」と、偶然とはいえハイデッガー繋がりとは妙な気分です。
→〈MGM/ユナイト〉関連記事
| cinema | 2016.10.08 Saturday | comments(0) | - |