おいでよ どうぶつの森
おいでよ どうぶつの森 (JUGEMレビュー »)

22世紀を目指し、カレンダーの最終日までタイムスリップしたりと相変わらず楽しんでます。
2100年のどうぶつ村は如何に?笑
紹介記事【2019.06.19】
 (JUGEMレビュー »)

こちらも「アーサー王宮廷のヤンキー」同様「トウェイン完訳コレクション」の一冊、子供の頃に読んだ童話絵本をイメージしたら大違いです。
古き良きアメリカの牧歌的なジュブナイルに見せ掛けた辛辣な社会批判は、巻末あとがきのナイスフォローを先に読む方が好いかも?
紹介記事【2019.05.22】
Ben Folds & Nick Hornby - Lonely Avenue
Ben Folds & Nick Hornby - Lonely Avenue (JUGEMレビュー »)
Ben Folds & Nick Hornby
「ハイ・フィデリティ」作者×ベン・フォールズ・ファイブ元リーダー(?)のコラボ作。
SOSとはまた異なるバカラック的ドリーミーさ+初期B.ジョエル的な吟遊ピアノ感、ヴィンテージ系シンセ&ストリングスのあしらいも絶妙。
紹介記事【2019.06.27】

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最近読んだ本
田中俊明(監修)「この一冊で早わかり 日本・中国・朝鮮 東アジア三国史」

ずっと(朝鮮史って知らないなぁ)と思っていて、ワルデマール・アベグが100年前のソウルで撮った写真を見て尚更そう思ったのです…戦勝気分に沸く横浜や東京の写真とは対照的な、板張りの長屋と禿げ山の貧相で荒涼とした光景に。
日本に併合される直前の朝鮮が如何なる状況だったのか、そもそも現在の朝鮮半島に在住する人々は古代朝鮮からの文化や血縁を継承しているのか?…そうした疑問には先ず中国史との関連も踏まえなければならないだろうし、当然ながら日本との関係も知っておく必要が出てくるだろうけど。
そんな都合の好い視点で書かれた本があるだろうか?

本書も、そこまで都合が好い訳ではありません…しかし中国と朝鮮と日本の歴史的な関連事項を押さえながら、古代から近代へと時代毎に東アジアを概観していく構成になっているので実にイメージしやすいです。
しかしながら本書は「東アジア三国史」ですので、各国の固有な文化や特色には触れておりません…また朝鮮民族という固有性についても本書では明らかにしておりませんので、当初の期待に沿う内容かといえば全然ちがっていた訳です。
ただし古朝鮮という時代に対して言及し考察するには、考古学的な確証が存在しない現時点では無理があるという事は分かりました。

そして朝鮮半島は遥か昔から女真族や漢族といった大陸の民族による侵略と支配の歴史を繰り返してきたんですが、何故か豊臣秀吉や旧帝国軍の朝鮮出兵に対しては未だに恨み骨髄なんですね…基本的に大陸の属領であり続けたせいなのか、反日教育の賜物なのかは何とも言えませんけれども。
現代の民主主義的なリテラシーに沿って考えれば、朝鮮半島に侵攻した日本は残虐であったと思います…でも東京裁判じゃあるまいし事後法で裁く発想自体が不自然というものです、明なり清なり国民党なり或いは欧米列強と比べて日本が悪事を働いた訳でもないし。
正しかったかは別として。

とはいえ、僕はここで現在の政治について話をする気はないんです…ただ当時の日本が悪辣だったのかといえば、実はそんな事なかったんじゃないかっていう。
近代的な見地でも同時代のロシアや欧米と大差ないですし、むしろ近年の弱腰外交よりも当時の日本は列強と上手く渡り合っていたとさえ感じさせられました。
中国が列強に分割統治され、ロシアの勢力が朝鮮半島にまで及んできたとしたら?…そりゃあ日本は指をくわえて見てるべきだ、なんて誰も思わないでしょう。
朝鮮半島が侵略を繰り返された歴史は、地勢的な理由と独立国家であるという認識が薄かったからだったのね。

第二次大戦中のドイツがロシア/ソ連の南侵を食い止めたのと同じように、当時の日本もまた知略を駆使して社会主義の拡散に歯止めをかけたんじゃないの?
それと、もう一つ…日露戦争で一気にロシアの軍勢を押し返した日本軍でしたが、ロシア国内の混乱が味方してくれたから勝利したに過ぎなかったんですね?
もしもロシア国内が安泰だったら、日本は後の太平洋戦争と同じく初戦で優位に立っても結局は物量で負けたのでは?…逆に言えば戦勝に酔った日本国民が軍部を称賛した事と、この悪しき先例にあやかった軍部の慢心が真珠湾の奇襲に繋がったように思えるのです。

戦後日本の自虐史観に対する揺り戻し、と言われればそれまでの話ですけどね。
まだ学ぶ余地はありそう。
東アジア三国史1(←左クリックで拡大表示されます)
東アジア三国史3(←左クリックで拡大表示されます)
東アジア三国史2(←左クリックで拡大表示されます)


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以下は個人的な雑記(&メモ画像)

紀元前【殷〜周〜秦/伽耶/縄文〜弥生時代】
東アジア三国史4(←左クリックで拡大表示されます)
鉄の王国ヒッタイトのタタール人が誇った製鉄技術は、インドから中国〜朝鮮半島を経由して弥生時代中期の日本に伝来した。
日本の稲作は渡来系弥生人説が否定され、東アジアの稲作の起源である長江流域から直接伝わったと判明。
万里の長城が現在の形に整備されたのは明代だが、戦国時代から秦代に作られた土塁のような防壁も未だに痕跡を残している。

中国の盤古と南北朝鮮の朱蒙に関する建国神話は東南アジアにもみられる「卵生神話」だが日本には存在しない、しかし「天孫降臨神話」は南北朝鮮の檀君と日本のヒノホニニギに共通する…もしかしたら氷河期の終わりにマンモスを追って南下してきた人々がカムチャツカ半島や朝鮮半島から辿り着き、最初の日本人になったのかも?


紀元前後【漢代/高句麗/弥生時代】
東アジア三国史5(←左クリックで拡大表示されます)
古朝鮮国家である衛氏朝鮮は、紀元前195年に漢の権力闘争から逃れた武人が“徒党一〇〇〇人余りを率いて朝鮮半島へいき、そこで国を開いた”とされる。
衛氏朝鮮国の主は建国してすぐ漢と君臣関係を結びながら、半島北部の尼渓や歴谿といった小国を取り込んで東部の臨屯や西部の真番などを服従させていった。
しかし外臣の責務を果たそうとしなかった衛氏朝鮮国は、漢によって紀元前109年に三代で滅ぼされた。
この頃の朝鮮半島南部東岸には辰国があり、紀元前37年に高句麗が建国された頃は辰韓と名乗っていた…また南部西岸の馬韓、南端の弁韓と大別されるも国家ではなく韓族全体で80程の小国を成していた。
“辰韓と弁韓は、言葉や風俗、習慣などに共通点がみられたが、馬韓は異質であった”
高句麗は朝鮮半島の付け根、現在の中国遼東省から吉林省にかけて農耕と狩猟を営んできた貊族を主体とした国であり、朝鮮半島の北部がその支配下にあった。
漢(前漢)が新へと国号を改めた際、統治に従わなかった高句麗は下句麗に改名させられるも、漢王朝が復興(後漢)すると朝貢によって国号を取り戻した。

当時の日本(倭国)も朝鮮南部と同様に小国が乱立しており、既に大陸との交流が始まっていた…周の時代には倭人がウコンを献上したと記述があり、西暦14年には100隻余りの兵船で半島の海岸部にて略奪を働いたとの記述も残っている。
朝鮮半島で馬鈴やカウベル的に使われていた銅鐸は、日本に牛馬が持ち込まれた時代よりも早かったため神器として尊ばれた。

後漢末期に太平道という陰陽五行に基づく新興宗教が「黄巾の乱」を起こし、漢の衰退と内乱を招く。


西暦200〜600【三国時代〜南北朝時代/高句麗、百済、新羅/古墳〜飛鳥時代】
東アジア三国史6(←左クリックで拡大表示されます)
後漢の衰退から中国は河北の魏・江南の呉・湖北の蜀へと分裂、魏は国号を晋と改め(西晋)西暦280年に中国を統一…しかし各地の王族間で対立し、この「八王の乱」が重用した異民族の流入が河北の匈奴と羯、遼東の鮮卑、西域はチベット系の羌と氐との(五胡)乱戦を招く。
この争乱で、漢族は“およそ一〇〇〇年にわたって住み慣れた都を追われ、流浪の民となる”…この時代に客家集団が福建省へと南下していったのだろうか、ともあれ“漢族の大移動は、はからずも江南の本格的開発へとつなが”った。

当時の朝鮮半島では馬韓から百済が建国されてはいたが、鴨緑江の中流を中心とした高句麗の版図拡大に滅亡…南部の新羅と伽耶も含めた半島全土を支配下に治めた高句麗は内陸部の遼河から沿海州と契丹族の部族が割拠していた地域も制圧し、589年に陳を滅ぼした隋と冊封関係を結ぶ。
やがて百済が再興して伽耶に進攻、新羅とも婚姻同盟を結び高句麗に対抗する。

応神天皇の時代、百済から帰化した秦氏族は大阪の太秦〜京都の太秦〜深草や亀岡などへ移住、新羅や高句麗からも多数の渡来人が移住した痕跡は関東でも神奈川の高麗山や秦野、狛江といった地名から伺える。
また家畜馬も輸入されるようになったが、銅鐸が本来の用途で使用される事はなかったようだ。


西暦600〜900【唐、渤海(ぼっかい)/新羅/飛鳥〜平安時代】
東アジア三国史7(←左クリックで拡大表示されます)
倭国は女帝・推古天皇と摂政・聖徳太子の時代に入り、高句麗・百済・新羅の三国がしのぎを削る朝鮮半島情勢を鑑みて大国の隋から「冊封外の独立国」と認めてもらうべく遣使を派遣…ところが「日出ずる処の天子」やら「恙無きや」といったタメ文に隋の煬帝は激怒、返書を盗み読んだ小野妹子は両国間に波風が立たぬよう文面を改ざんして誤魔化した。

隋は高句麗との国境問題に派兵した事が国力を疲弊させ、唐も百済と組んだ高句麗に苦戦するが新羅との連合+高句麗の内部抗争に乗じて滅ぼす。
倭国では百済派の蘇我氏が反勢力の軽皇子と中大兄皇子によって失脚、しばらく遣唐使を送るなど親唐政策に傾くが百済を滅亡させた唐・新羅連合の脅威が国防意識を芽生えさせ国号も日本と改める。

唐は高句麗の国民を遼寧省へ強制移住させたが、同地に収容されていた靺鞨や契丹など諸民族が振(震)を建国…渤海とは接していないのに何故か国号を渤海と改め、朝鮮半島北部から黒龍江に至る沿海州を範図とした。
女帝の即位で混乱した唐を立て直した玄帝は息子の妻だった楊玉環に狂い、策を巡らせ745年に貴妃とする…突厥というテュルク(トルコ)系の遊牧民族を母に持つソグド人で康国(現サマルカンド)出身の安禄山が台頭し、楊の外戚と対立して安史の乱の引き金となった。


西暦900〜1200【宋〜金/高麗/平安時代】
東アジア三国史8(←左クリックで拡大表示されます)
906年に唐が滅ぶと渤海内部の権力バランスが乱れ、モンゴル高原のタタール諸族を統一した契丹(遼)によって滅ぼされた。
高句麗なき後の朝鮮半島では、後高句麗・後百済・後新羅の後三国時代を経て918年に高麗が建国され半島を統一…唐に倣って導入した科挙制度は1894年まで約500年も続き、本来は文官(東班)と武官(西班)を意味していた両班が貴族階級として定着した。

遼は960年に建国された宋を攻めて朝貢を誓わせ、高麗にも臣従を要求…しかし1115年に東満州地域を統一した靺鞨(女真)族が興した金国が遼を滅ぼし、女真族を昔から見下していた高麗も金の冊封下に入る。
遼に対抗する上で都合よく金国を利用した宋は賠償の他に皇族や官僚を数千人も人質に取られ、南に逃げた宋の残党が建国した南宋も金国に敗れた…1153年に金は燕京(北京)に遷都、1167年には全真教が興る。

遣唐使を廃止した894年より外交貿易が絶えていた日本だが、荘司として九州に赴任した平忠盛は私貿易により財を蓄え次代の清盛が平氏政権を樹立…博多湾や瀬戸内航路を整備して南宋と国交を結び、源氏の開いた鎌倉幕府が民間貿易を認めると日宋貿易は栄えた。


西暦1200〜1350【元/高麗/鎌倉時代】
東アジア三国史9(←左クリックで拡大表示されます)
1196年、遊牧民キヤト族のテムジンがタタール族を討伐…次々と有力部族を服従させた彼は1206年のクリルタイ(大集会)で全モンゴルのハンに推挙され、チンギス・ハーンと名を改める。
モンゴル高原の東部には3人の弟(ジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギン)を、西部には3人の息子(ジュチ、チャガタイ、オゴデイ)の6軍団を配置、1229年のクリルタイで次代ハンに即位したオゴデイ率いるモンゴル帝国は南東の金国から南西のホラズム・シャー朝までを短期間の内に陥落させていった。
ジュチ家のバトゥはモスクワからウラディミール公国へ進軍、1239年にキエフを攻略すると軍を分けてチャガタイ家のベタはポーランドを攻めオゴデイ家のカダンはトランシルバニアからハンガリーへ侵攻。
モンゴル帝国は戦略に長けていただけでなく、関税撤廃や現代の投資ファンドを先取りするなど優れた経済政策も確立した…また宗教への寛容さやムスリム商人の重用、交通網の整備は大陸東西の文化交流を活発化させた。
衰退期にモンゴル帝国の東征が重なった高麗は、30年近い抗戦も空しく1259年に冊封国となる…1271年に五代皇帝となったクビライは国号を中華風に元と改め、国書を黙殺した日本へと襲来するも高麗の残党狩りで兵力を割かれた上に次期ハン争いが起きたため頓挫する。


西暦1350〜1800【明〜清/李氏朝鮮/室町〜江戸時代】
東アジア三国史10(←左クリックで拡大表示されます)
モンゴル帝国は後継者争いなどによりキプチャク=ハン/チャガダイ=ハン/オゴデイ=ハン/イル=ハン/元の5か国に分裂、元では白蓮教徒の起こした紅巾の乱を契機に全土でモンゴル支配への反乱が勃発…貧農から托鉢僧を経て1368年に明を建国した洪武帝は大都(北京)を元より奪還、また朝鮮半島では1392年に李氏朝鮮が建国し翌年に国号を朝鮮と改める。
1391年に南北朝を統一した足利義満は明に交易を求め、条件とされた倭寇(前期)の取り締まりに着手…倭寇は洪武帝の発した海禁令で民間の交易が禁じられるなど、周辺国との物流が途絶えた事で交易に頼って暮らしていた人々が略奪行為に走ったという背景を持つ。

永楽帝の時代、雲南省に移住したイスラム教徒の子孫で官宦の最高職まで上り詰めた鄭和が南海遠征の司令官に任命される…隋代の遣使船は日本海を渡るのも覚束ない上に航海術も未熟だったが、唐代にはシルクロードや海路の交易網を発達させて元代にはインド西南部まで進出を果たしており、鄭和は7回に及ぶ航海でアラビア半島からアフリカ西岸まで遠征すると各国が明への朝貢に来訪した。
ヨーロッパが大航海時代を迎える1443年より半世紀近く先んじた鄭和の宝船は、全長約30mのバスコ=ダ=ガマのサン・ガブリエル号に対し約130mという桁外れの巨艦だったという。

永楽帝は内モンゴルへの遠征にも積極的だったが、以降の皇帝は対外政策に消極的で朝貢貿易にも制限を加えた事が裏目に出てしまう…北西からはモンゴルの二大勢力となったオイラトとタタールが相次いで侵攻、東南では密貿易船が武装化していくが(後期倭寇)1567年に海禁政策が緩和され1588年に豊臣秀吉が倭寇取締令を出して鎮静化に向かう。
ちなみに1429年には中山王が琉球を統一している。

日本では1573年に室町幕府が滅亡し、1582年に本能寺の変が起きる。
その翌年、建州女真のヌルハチが挙兵し海西女真と野人女真を統一すると1616年に後金を建国…女真族を満州族と改め、息子のホンタイジが後を継いで1636年に国号を清に改名する。
清代の風習である辮髪(弁髪)は最初“満州族が清朝を樹立する際、敵味方の区別を付けるためにおこなわれた”そうだが、漢族が儒教に反すると抵抗したら死刑に処すなど僧侶と禿頭以外の全国民に徹底させた。

1590年に天下統一を果たした豊臣秀吉には旧臣がいなかったので、明を征服しようという野心の歯止め役がなくまた家臣の忠誠心を保つために与える土地の不足を補うにも大陸進出は必然だった。
彼は対馬の宗氏が李氏朝鮮を従属させていると思い込んでいて、宗氏も実体は朝鮮の属領に近いとは言えなかった…宗氏は二枚舌外交で乗り切ろうと図るも秀吉は大軍を派兵し平壌まで一気に北上、しかし倭寇対策で鍛えられた朝鮮水軍の反攻と明からの援軍に加えて明へ進軍する補給線と想定していた穀倉地帯の半島西部を押さえられなかった事で戦線は停滞する。
飽くまで強気な秀吉は明の和平案に激怒、朝鮮全土を攻撃対象に変更するも1598年に秀吉が病没した事で7年に及んだ壬辰〜丁酉の倭乱は終息する…明は財政難から国力を低下させ、戦場となった朝鮮は“耕地は荒れ果て、人口は減少し、国家は疲弊し、ただ日本に対する恨みだけが残った”。

徳川家康が江戸幕府を開いた4年後の1607年、対馬に朝鮮からの使者が来る…これは1599年に対馬から届いた国書の真偽を探るためであり、講和を望む家康との面談を受けて朝鮮王朝で国交回復の気運が高まった。
しかし朝鮮国王から出された条件に対して、何者かが偽造工作を行った…家康からの謝罪文と倭乱の際に王墓を暴いた犯人、それらは“何とか朝鮮との国交を復活させたかった対馬による”でっち上げだったのだ。
それに気付かないフリをした朝鮮国王は、倭乱で日本へ強制連行された自国民の帰還を優先的な急務と考えていた…幕府の通達に対して大名が被慮人を隠ぺいしたり被慮人自身が帰国を望まなかったりで、連行されたのは数万人にも上るといわれるが帰国したのは2千人程度だったという。
岡山県の唐子踊は、朝鮮通信使の行列に由来する。

倭乱後の朝鮮は親明感情が高まるも後金および清の侵略に成す術もなく降伏、軍備の拡充に努めた事で却って対明戦や南下するロシアへの対抗戦力として駆り出されてしまう。

明は1644年に建国した大順国に滅ぼされ、それも同年中に清に滅ぼされる。
清は北京に遷都、1683年には鄭氏を降して中国史上で初めて台湾を領有し1750年にはチベットの反乱を制圧…1699年に広州貿易をイギリスに認め、1796年から再び白蓮教徒の乱が起き清政府はアヘン輸入の禁止するなど激動の時代を迎える。


西暦1800〜【清〜中国/大韓帝国〜韓国、北朝鮮/明治〜昭和】
東アジア三国史11(←左クリックで拡大表示されます)
白蓮教徒の乱を経て国力が低下していた清は、産業革命後の近代化された軍隊を有するイギリスが仕掛けたアヘン戦争に惨敗…1842年に南京条約を締結させられると、その尻馬に乗ったアメリカやフランスからも同様の利権を要求される。
更に国内では新興宗教団体が太平天国を建国し1853年に南京を占領、しかし義勇兵を率いて決起した李鴻章と西洋式の訓練を受けた中国人傭兵部隊・常勝軍によって太平天国は1864年に滅亡する。
日本は1871年に清と平等な通商条約を締結するも、朝鮮に対しては不平等な条約を突き付けて示威行動を繰り返した。

同年、琉球島民が難破し漂着した台湾で虐殺される…これに対して清が何ら法的処理を講じなかった事から日本は1874年に台湾へ出兵し、軍事的に決着させる。

1876年に日本と修好条約を結んだ朝鮮では親清派と親日派の対立が激化し、1882年に日清両軍の交戦へと発展…1885年、日本政府は伊藤博文を清に派遣し李鴻章と両軍の朝鮮撤退および再出兵の際には相互に予告するという条約を結ぶ。
1894年に朝鮮でカルト宗教に影響された農民の暴動が発生し、暴動鎮圧の要請を受けた清軍が出兵した事で日本軍も出征…収束後も両軍は撤退せず、海軍同士の砲撃戦から日清戦争が勃発。

翌年に終戦すると台湾や遼東半島の割譲などを盛り込んだ講和条約が締結されるが、露仏独の三国が遼東半島を清に返還するよう介入し日本は外圧に屈する。
しかしながら親日政権を樹立した朝鮮への内政干渉を進め、同時に門閥政治に歯止めをかけたり被差別賤民を解放したり女性の早婚を禁じ寡婦再婚の自由を認めさせるなど因習に囚われた朝鮮社会を近代的に改革もした…ところが王妃暗殺事件を契機に対日感情が悪化し各地で蜂起した義兵と日本守備隊が衝突、水面下で接触を続けていたロシアが支援するクーデターを経て1897年に皇帝となった高宗が国号を大韓と改める。

日清戦争が終結した1895年は、清の西太后政権が列強からの求めに応じた事で各地が植民地化された…“ロシアは満州(東北部)、ドイツは山東半島、イギリスは江南、フランスは華南”を租借地(租界)とし、工業企業権・鉄道敷設権・鉱山採掘権が与えられた結果“第一次世界大戦前には、八ヵ国が二七の租界をもつに至った”。
こうした列強の分割支配に反発する民衆から結成された「義和団」は、いわば幕末の尊皇攘夷と同じような思想ではあるが既に国土を食い物にされていた時点で状況は大きく異なる。
李鴻章から正規軍を引き継いだ袁世凱は義和団の白人を標的としたテロや破壊行為を弾圧するも、西太后からの支持を得た義和団は列強に宣戦布告する。

1898年に清と密約を交わしていたロシアは、旅順と大連をも租界にして太平洋艦隊を駐屯させ軍事拠点とした…極東における、ロシア得意の南下政策である。
1900年の義和団事件は“日米英露仏独オーストリアの八ヵ国が連合軍を組織して北京に駐留”する事態を招き、1901年に平定した各国は巨額の賠償金と外国軍の北京駐留を清に認めさせる事になった。

列強は日本とロシアがつば競り合いを繰り広げていた朝鮮へも進出し、米英仏独は鉄道敷設権や鉱山採掘権を取得…馬山浦の租界を足掛かりに半島北部を買収していくロシアに危機感を抱いたイギリスは日英同盟を締結、1904年に旅順港のロシア艦隊を奇襲した日本海軍が日露戦争の口火を切った。
開戦に伴って大韓帝国は戦時局外中立を宣言するも日露からは承認されず、半島北部が主戦場と化した…日本軍は一気にロシアの陸海軍を押し返していったが、1905年に「血の日曜日」事件が発生するなど混迷する国内事情からロシアは撤兵に転じ結果として日本は勝利する。
アメリカの仲介で1905年にポーツマス条約が調印され、日本は遼東半島の租借権と鉄道敷設権を取得…そして大韓帝国への指導と保護という大義名分も獲得し、日本は名実ともに朝鮮半島を支配下におく。

その頃、東京に亡命していた孫文が中国革命同盟会を結成…孫文は三民主義による漢民族の共和国家を目指し、武力闘争を掲げた。
翌1906年、南満州鉄道株式会社が設立される…後の満州国へと繋がる、最初の布石である。
日本の帝国主義に対して、大韓帝国では愛国運動と義兵闘争が激化…ハルピン駅で伊藤博文が射殺されたのが1909年、その翌年に英露の同意を得た日本政府は韓国と併合条約に調印する。

1911年、四川省の暴動に呼応した革命派が湖北省で軍蜂起し各省が追随…臨時大統領に選出された孫文は翌年、中華民国臨時政府を樹立する。
一方で満州の革命派は、馬賊を率いる張作霖によって打倒される…張は日露戦争時にロシアの密偵を務めるも日本軍に捕まってからは二重スパイとして働き、日露戦後は清軍を率いる袁世凱の配下となっていた。
清王朝より総理大臣に任命された袁は敵対勢力の臨時政府との裏取り引きで大総統のポストを保証されるや翌1912年に溥儀(宣統帝)を退位させ中華民国を建国、中国最後の王朝は滅びた。

1914年、日本は第一次世界大戦に参戦する。

朝鮮では1919年の高宗死去に伴い民衆の抗日運動が活発化、日本支配からの独立を目指す多くの市民が武力弾圧の犠牲となった…抗日独立の動きはウラジオストクや上海などにも飛び火し、上海では大韓民国臨時政府の樹立が宣言された。
因みに臨時政府の初代大統領は李承晩だったが、就任間もなく内部対立から渡米しロビー活動を開始した。
その頃、中華民国内部では王政復古を望む袁と共和制を唱える孫文が対立…1919年に中国国民党を結成した孫は国内の混乱を先ず収拾させるべく、1924年に中国共産党との「国共合作」を提唱する。

1923年、日本では関東大震災が発生する。

袁の許を離れた張作霖は国内を割拠する軍閥の中でも満州王と称される大勢力を獲得しており、過去に二重スパイとして彼を拾った参謀から首相にまで上り詰めていた田中義一は国民党優位の中華民国に張を送り込む…だが張は独自に立ち回り始め、満州国独立を画策する関東軍には疎ましい存在となってくる。

袁世凱と孫文という中心人物を亡くした中国国民党は1925年に広州で国民政府を樹立し、蒋介石は国民革命軍の司令官に就き各地の軍閥を討伐する…しかし国民政府内で党と対立した軍は1927年に上海でクーデターを起こし共産党を弾圧、国共合作は崩壊する。
蒋介石が南京国民政府を樹立すると従来の国民政府も傘下に入り、一方で共産党も毛沢東が紅軍を組織して二大政党の軍事対立という構図が鮮明になってくる。
1928年、蒋介石の軍閥討伐に退却する張作霖は列車の爆発で死亡…更に1931年には関東軍が南満州鉄道の線路を爆破する満州事変が発生、関東軍は満州全域を占領し宣統帝を傀儡とした満州国を建国する。

共産党は中華ソビエト共和国臨時中央政府を樹立し毛沢東が首席に就任、国民革命軍と日本軍に対峙するも蒋介石の包囲攻撃を前に逃走し各地を転々とする。
毛は思想教育によるゲリラ戦(人海戦術)を提唱、また抗日統一戦線の結成を呼び掛けた…蒋は抗日よりも反共を優先すべきと紅軍弾圧を続けたが、張作霖の息子・学良の背反で軟禁され第二次国共合作が成立する。
紅軍は八路軍と新四軍に改編され、八路軍は日本軍が支配する都市や農村でのテロやゲリラ戦を展開した。
1937年、北京郊外の盧溝橋で日本軍と国民革命軍が武力衝突し日中戦争が始まる…1941年には、日本は太平洋戦争にも突入する。
その頃、祖国光復会という満州に接する朝鮮北部の抗日活動組織の会長として勇名を馳せたのが金日成であった。

1945年、中国全土は対日戦どころか既にソビエト連邦の支援を受ける共産党とアメリカが後押しする国民党との代理戦争と化していた…更にソ連軍は日本がポツダム宣言を受諾する直前に満州侵攻を開始、直後には北方四島をも占領する。
朝鮮半島もまた終戦前に南北から侵攻した米ソにより占領下に置かれ、米英中ソでの信託統治が決まった。
意外な事にアメリカ占領下の日本では、同年の内にGHQによる政治犯釈放命令で日本共産党員ら500名の政治家や活動家が解放されている。

国共内戦はアメリカの物量支援で圧倒する国民党が1947年に中華民国の樹立を宣言、蒋介石が総統に就任。

1948年、南北統一の動きは実らず朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国が成立…韓国の初代大統領は終戦直後に帰国していた李承晩、北朝鮮の初代首相は金日成である。
また同年、アメリカではロイヤル陸軍長官が「日本を共産主義の防波堤にする」と発言、翌年にはGHQによるレッドパージが始まる…終戦から3年を措かずして、占領政策は冷戦時代を見据えて大きく転換した。
その頃、共産党の人民解放軍は毛沢東とスターリンの密談で劣勢を覆して1949年に蒋介石と手勢50万の国民党軍を台湾に追いやる…ここで遂に中華人民共和国が成立し、毛は中央人民政府首席に選任された。
毛はソ連型計画経済を国情の違いを鑑みずに導入、矛盾と非効率が蔓延して“大躍進運動と人民公社は失敗し、毛沢東は失脚の危機に直面する”。

北朝鮮からのゲリラ戦に対抗する韓国警察と正規軍は“既に宣戦布告なき戦争状態に突入していた”が、1950年にスターリンと毛沢東の承認を得た金日成は北朝鮮人民軍に三八度線を越えて韓国への侵攻を指示…朝鮮戦争は開戦3日でソウル占領に至り、韓国側は釜山に遷都して抗戦した。
国連安保理に北朝鮮への非難決議を諮ったアメリカと16か国からなる国連連合軍が韓国を支援、連合軍の参戦で形勢逆転された北朝鮮は中ソに援軍を要請…という訳で朝鮮半島は中国本土の国共内戦の再現となり、日露戦争と同様な状態になった。

その頃、敗戦の復興に喘いでいた日本は3年に及んだ戦争特需という恩恵により目覚ましい高度経済成長への基盤を獲得する。
まぁこれは、いち早く社会主義の脅威に対抗していた日本に対する欧米列強からのお詫び的な経済支援だったのかも?笑

過去最長となった個人的メモも、あとは戦後の中国と韓国のまとめですね。

まず中国、劉少奇国家主席と小平総書記が破綻した経済の建て直しをはかるも毛沢東は二人を“社会主義革命を否定し、資本主義に走った。自己批判せよ!”と糾弾しプロレタリア文化大革命を提唱…学生たちで組織した紅衛兵を“古い文化や思想、風俗・習慣は、人、物を問わず、徹底的に叩きつぶせ”と煽動し、民衆の鬱憤晴らしを利用して政治の表舞台に返り咲く。
もっと立派な人物なのかと思ってたら、単独でロシア〜ソビエト連邦の失敗を上回る程の愚者だったのね毛!

しかしながら紅衛兵らも愚かなので借り物のイデオロギーで勝手に分裂し暴走、そこで彼らを今度は「下方政策」なる方便で農業に従事させれば八方まるく収まると独断…結果的に毛沢東は、古代から受け継がれてきた文化遺産を消し去った上に、若年層から教育の機会まで奪ってしまうという致命的な間違いを犯した。
毛の盟友、周恩来の根回しによって流刑を解かれ政界復帰した小平は1976年に周と毛が死去すると文革終結を宣言して改革開放を提唱…1980年から経済特区を設置し沿岸部の14都市に市場開放を認めるなど現在の経済発展の基礎を築き、それは同時に極端な所得格差をも生み出した。

さて韓国では朝鮮戦争終結前の1952年から日本政府と国交正常化交渉を進めていた李承晩政権が、日本が“過去の精算と謝罪に理解を示そうとしない”として一方的に李承晩ラインを公海に設け日本の船舶を拿捕するなど強硬姿勢に…後に李は1960年の不正選挙疑惑から200人近い市民を殺害、以降は軍政を維持する歴代大統領と民主化を求める市民とが対立する時代に突入…1973年には民政派の金大中が都内でKCIAに拉致連行される事件も発生、実は1988年のソウル・オリンピックってようやく民主化できた韓国へのご褒美だったのかもなぁ?笑
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    | books | 2016.10.25 Tuesday | comments(0) | trackbacks(0) |









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