最近読んだ本
ティム・オブライエン(著)、村上春樹(訳)「本当の戦争の話をしよう」
本書は「百万年の船(2)」と一緒に買った文庫本で、まさか「百万年〜」と「新しい太陽の書」という2つのシリーズにハマってこれほど後回しになるとは思ってもいませんでしたよ…まぁ少しずつは読んでいたのですが、やはりエッセイ風とはいえベトナム戦争の従軍経験を基に綴られているので取っ付きづらくてね。
そもそも海外小説ってのは、僕にとって最初は取っ付きづらいものなんです…必ずしも訳文に違和感があるのではなく、おそらくは自分の日常言語と大きく異なる文法や思考過程の表出に慣れるまで時間が掛かるせいなのだろうと思います。
つまり、本書に限らずね。
僕が初めて読んだアメリカ現代文学、というかコラム?はボブ・グリーンの「チーズバーガーズ」でした。
ペーパーバックの原書にチャレンジして挫折し、邦訳の文庫本で読み通したのですが…本書を読んでいると何故か度々、あの本の事が頭に浮かんできました。
綴られるエピソードの大半は、ベトナムでの戦時体験です…ただし戦争映画のようなドンパチではなく、非常に静かな光景なのです。
著者自身と思しきティムという若者か、彼と同じ隊にいた兵士の目線で描かれる平穏な戦場…それらの出来事や会話から失われたリアリティは、過ぎ去った時間の長さ故なのでしょうか?
それは20余年の歳月に繰り返し再生されて、音声トラックが磨り減ったフィルムの映像を思わせます。
戦争の話、それは戦闘の話ではありません…おそらく交戦中は恐怖と混乱、憤りや陶酔といった激しい感情が入り乱れるでしょうが。
死と隣り合わせの、緩やかに始まり唐突に断ち切られる平穏な時間…1968年の6月に徴兵通知が届いた話も、思いを言葉に出来ずに「ブルーフレンド」みたく死ぬしかない帰還兵の話も。
行軍途中の地雷やトラップで一瞬にして仲間が死ぬ話も、通り過ぎる村でカリカリに焼けていた遺体の話も巻き戻せない現実という静かな諦感に満ちています。
過去に読んだ「戦争とは知ろうとするほど分からなくなる」という文や、動画サイトで目にした空爆の記録映像が脳裏を過り…映画「地獄の黙示録」の様々な場面が新たな意味を帯びてきたり、高橋源一郎の著作に出てきた「すばらしい日本の戦争」を思い出したり。
滑稽な描写に隠された心の痛みや深く鈍い哀しみ、不謹慎さや侮蔑の奥に潜む正気へのバランスが静かに胸を打ちます…特に巻末の“命をお話によって救おうとしている”物語は、語りたくても語る術を持たなかった戦争体験者へのレクイエムのようでもあります。
パーソナルな体験としての戦争は、僕らの理解力と想像力を求めているのかも。
→〈ほんとの戦争〉関連記事
→〈1968年〉関連記事
→〈村上春樹〉関連記事:
以下、個人的メモ。
本書は「百万年の船(2)」と一緒に買った文庫本で、まさか「百万年〜」と「新しい太陽の書」という2つのシリーズにハマってこれほど後回しになるとは思ってもいませんでしたよ…まぁ少しずつは読んでいたのですが、やはりエッセイ風とはいえベトナム戦争の従軍経験を基に綴られているので取っ付きづらくてね。
そもそも海外小説ってのは、僕にとって最初は取っ付きづらいものなんです…必ずしも訳文に違和感があるのではなく、おそらくは自分の日常言語と大きく異なる文法や思考過程の表出に慣れるまで時間が掛かるせいなのだろうと思います。
つまり、本書に限らずね。
僕が初めて読んだアメリカ現代文学、というかコラム?はボブ・グリーンの「チーズバーガーズ」でした。
ペーパーバックの原書にチャレンジして挫折し、邦訳の文庫本で読み通したのですが…本書を読んでいると何故か度々、あの本の事が頭に浮かんできました。
綴られるエピソードの大半は、ベトナムでの戦時体験です…ただし戦争映画のようなドンパチではなく、非常に静かな光景なのです。
著者自身と思しきティムという若者か、彼と同じ隊にいた兵士の目線で描かれる平穏な戦場…それらの出来事や会話から失われたリアリティは、過ぎ去った時間の長さ故なのでしょうか?
それは20余年の歳月に繰り返し再生されて、音声トラックが磨り減ったフィルムの映像を思わせます。
戦争の話、それは戦闘の話ではありません…おそらく交戦中は恐怖と混乱、憤りや陶酔といった激しい感情が入り乱れるでしょうが。
死と隣り合わせの、緩やかに始まり唐突に断ち切られる平穏な時間…1968年の6月に徴兵通知が届いた話も、思いを言葉に出来ずに「ブルーフレンド」みたく死ぬしかない帰還兵の話も。
行軍途中の地雷やトラップで一瞬にして仲間が死ぬ話も、通り過ぎる村でカリカリに焼けていた遺体の話も巻き戻せない現実という静かな諦感に満ちています。
過去に読んだ「戦争とは知ろうとするほど分からなくなる」という文や、動画サイトで目にした空爆の記録映像が脳裏を過り…映画「地獄の黙示録」の様々な場面が新たな意味を帯びてきたり、高橋源一郎の著作に出てきた「すばらしい日本の戦争」を思い出したり。
滑稽な描写に隠された心の痛みや深く鈍い哀しみ、不謹慎さや侮蔑の奥に潜む正気へのバランスが静かに胸を打ちます…特に巻末の“命をお話によって救おうとしている”物語は、語りたくても語る術を持たなかった戦争体験者へのレクイエムのようでもあります。
パーソナルな体験としての戦争は、僕らの理解力と想像力を求めているのかも。
→〈ほんとの戦争〉関連記事
→〈1968年〉関連記事
→〈村上春樹〉関連記事:
以下、個人的メモ。
“そしてヴェトナムの抱える両義性やら、その謎やら未知やらに取り囲まれながらも、少なくともこれだけはいつもはっきりしているという事柄があった。それは彼らが担ぐべき物が不足して困るような事態は絶対にないということだった”(「兵士たちの荷物」p.33〜34)
“あのな、平和ってのはな、ものすごく気持ちのいいもんだ。あんまり良すぎて胸が痛むくらいだよ。だからそいつを痛め返してやりたくなるんだ”(「スピン」p.66)
“四十三歳、戦争が終わってからもう人生の半分が経過してしまった。でも記憶はありありと、まるで現在のことのようによみがえる。そして時には記憶が物語へと導かれていく。そのようにして記憶は不滅のものとなる。それが物語というものの目的なのだ。物語が過去を未来に結びつけるのだ”(同p.68)
“人は誰しもこう信じたがっているのだ。我々は道義上の緊急事態に直面すれば、きっぱりと勇猛果敢に、個人的損失や不面目などものともせずに、若き日に憧れた英雄のごとく行動するであろうと(中略)もし機がしかるべく熟したならば、悪人があくまで悪人であり、善玉があくまで善玉であるならば、私はこれまでの歳月をかけて自分の中に蓄えてきた勇気の貯水池の栓をただひねればいいのだ、と(中略)無駄遣いしないように倹約して取っておいて、その分の利息を積んでいけば、モラルの準備資産というのはどんどん増加していくし、それをある日必要になったときにさっと引き出せばいいのだと。それはまったく虫の良い理論だった。そのおかげで私は、勇気を必要とする煩雑でささやかな日常的行為をどんどんパスすることができた。そういう常習的卑怯さに対して、その理論は希望と赦免を与えてくれた。将来に向けて積み立てているんだからということで、過去は正当化された”(「レイニー河で」p.71〜72)
“それは内戦なのか、それは民族の解放戦争なのか、それともただの単純な侵略戦争なのか。誰がいつどんな理由でそれを始めたのか。闇夜のトンキン湾で、駆逐艦マドックスに実際に何が起こったのか”(同p.72〜73)
“新兵が必要なのなら、どうして「ヴェトナムを石器時代に戻せ」と叫ぶようなタカ派のやつらを徴兵しないんだ。あるいは作業ヘルメットをかぶって「ハノイ爆撃」というバッジをつけたどこかの間抜けの戦争支持者を。あるいはジョンソン大統領の可愛い三人娘の一人を。あるいはウェストモーランドの一家全員を”(同p.74〜75)
“彼らには歴史なんてわかりはしない。ジエムがどんな独裁制を敷いていたか、ヴェトナムのナショナリズムがどのようなものか、あるいは長いフランスによる植民地統治についてなんてこれっぽっちも知らない(中略)それはコミュニストを封じ込めるための戦争なのだ。単純明快である。そしてそれがまさに彼らの求めているものなのだ。そしてそういうシンプルな大義のために人を殺したり殺されたりすることにちょっとでも疑いをもったら、弱虫の裏切り者ということになってしまうのだ”(同p.79〜80)
“それから私は兵士としてヴェトナムに行った。そしてまた故郷に戻ってきた。私は生き延びることができた。でもそれはハッピーエンディングではなかった。私は卑怯者だった。私は戦争に行ったのだ”(同p.100)
“もし教訓的に思える戦争の話があったら、それは信じないほうがいい(中略)君は昔からあいも変わらず繰り返されているひどい大嘘の犠牲者になっているのである。そこにはまともなものなんてこれっぽっちも存在しないのだ(中略)だからこそ真実の戦争の話というのは猥雑な言葉や悪意とは切っても切れない関係にあるし、それによってその話が本当かどうかを見分けることができる”(「本当の戦争の話をしよう」p.117)
“往々にして馬鹿みたいな話が真実であり、まともな話が嘘である。何故なら本当に信じがたいほどの狂気を信じさせるにはまともな話というものが必要であるからだ”(同p.120)
“たとえば戦争はグロテスクであると言うこともできる。しかし実を言えば戦争はまた美しくもあるのだ。その恐怖にもかかわらず、君は戦闘のすさまじいまでの荘厳さに息を呑まないわけにはいかないだろう(中略)それは人の度胆を抜く。それは人の目を引きつける。それは人を支配する。君はそれを憎む。そう。でも君の目はそれを憎まない(中略)力強く、無慈悲な美しさだ。本当の戦争の話はその美についての真実を語るだろう。たとえその真実の姿勢が醜いとしても”(同p.133〜134)
“戦争において君は明確に物事を捉えるという感覚を、失っていく。そしてそれにつれて何が真実かという感覚そのものが失われていく。だからこう言ってしまっていいと思う。本当の戦いの話の中には絶対的の真実というものはまず存在しないのだと。”(同p.135)
“ドピンズは不死身だった。怪我もしなかったし、かすり傷ひとつ負わなかった。八月に彼はバウンシング・ベティーを踏んだ。しかし地雷は不発だった。その一週間後に彼は開けた場所で激しい小規模の銃撃戦に巻き込まれた。遮蔽物は何もなかった。でも彼は急いでパンティーストッキングを鼻に押しつけ、深く息を吸い込んでその魔法に身を任せた。
そのおかげで我々の小隊は全員縁起かつぎになってしまった。事実を見せつけられたら反論のしようもない。
しかしやがて、十月の終わり頃に、そのガールフレンドが彼を捨てた。それはすごい打撃だった。ドピンズはしばらくのあいだ口もきかなかった。彼女の手紙をただじっと見ているだけだった。それからおもむろにストッキングを取り出し、まるで襟巻きのように首に巻きつけた。
「まあいいや」と彼は言った。「俺はまだ彼女を愛しているんだもの、ご利益は消えちゃいないさ」
我々はそれを聞いてみんなすごくほっとした”(「ストッキング」p.192〜193)
“雨がどれくらい休みなく降りつづけたか。寒さがどれくらい厳しく骨に滲みたか。ある場合には、世界中でいちばん勇敢な行為は一晩じっと坐って、骨に寒さを感じつづけていることである。勇敢さというのはイエスかノーかで片がつくとは限らないのだ。時として、それは程度の問題となる。たとえば寒さのような。時として君はあるところまではものすごく勇敢になる。しかしそのポイントを越えると、君はもうそれほど勇敢ではなくなる。ある状況のもとでは君は信じられないようなことをなし遂げられる(中略)しかし別の状況下では、それがもっと穏やかな状況であったとしても、君はちゃんと目を開けていることさえできない”(「勇敢であるということ」p.243)
“フラッシュバックもなければ、真夜中に汗びっしょりになることもなかった。結局のところ戦争はもう終わってしまったのだ(中略)でも戦争から帰還してからずっと、私はそれこそノンストップで、文章を通して戦争の話を物語りつづけていた。物語ることは咳払いをするのと同じくらい自然な、そして避けることのできないプロセスであるように思えた。それはカタルシスでもあり、コミュニケーションでもあった(中略)もし文章を書いていなかったなら、私だってどうしていいかわからなくなっていたかもしれない(中略)でも物語を語ることによって、君は自分の経験を客観化できるのだ。君はその記憶を自分自身から分離することができるのだ。君はある真実をきっちりと固定し、それ以外のものを創作する(中略)でもそれによって君は真実をより明確にし、わかりやすくすることができるのだ”(「覚え書」p.258〜259)
“私は思うのだけれど、お話の力というのは、物事を目の前に現出させることにある。
私はそのとき見ることのできなかったものを見ることができる。私は悲しみや愛や憐れみや神に顔を賦与することができる。私は勇敢になれる。私はもう一度それを身のうちに感じることができる。
「お父さん、ホントのことを言ってよ」とキャスリーンが言う、「お父さんは人を殺したことあるの?」そして私は正直にこう言うことができる。「まさか、人を殺したことなんてあるものか」と。
あるいは私は正直にこう言うことができる、「ああ殺したよ」と。”(「グッド・フォーム」p.292〜293)
“彼女は死んでいた。私はそれを理解していた。なんといっても私は彼女の遺体を目にしたのだ。それでもなお九歳にして、私はお話の魔法を使うことを覚えたのだ。そのいくつかはただ夢に見た。それ以外のものは私は自分で書き上げた――情景とか台詞とかをだ(中略)「そうね、今のところ私は死んではいない」と彼女は言った。「でも死んでいるときには、私はまるで……なんて言えばいいのかしら、それはちょうど誰も読んでいない本の中に収まっているような感じだと思う(中略)古い本よ。それは図書館の上の方の棚にあるの。だから何の心配もないの。でもその本はもうずっと長いあいだ貸出しされていないの。だからただ待つしかないわけ。誰かがそれを手に取って読み始めてくれることをね」(中略)そして私が暗闇の中で高く跳躍し、三十年後に降りたつとき、私にはわかるのだ。それはティムがティミーの命をお話によって救おうとしているのだということが”(「死者の生命」p.387〜389)
“ティム・オブライエンは本書の中で徹底して自らを語っている。それと同時に、まるであわせ鏡のように、自らを語る自らを語っている。本当の話は本当に本当のことなのか(中略)しかしそれは決して、よくある小説作法的な仕掛けではない”(「訳者あとがき」p.392)
| books | 2017.04.15 Saturday | comments(0) | - |