最近読んだ本
クリストファー・チャプリス&ダニエル・シモンズ(著)、木村博江(訳)「錯覚の科学」
初版'14年の文春文庫、著者はSF作家のダン・シモンズとは別人だと思います…いや案外そうなのかな、でも多分ちがうと思う。笑
それはさておき本書、ここ数年で読んだ本の中では断トツのインパクトでした。
もし仮に「自称科学者のエセ科学」だったとしても、これだけ徹底して人間の根本的な出鱈目さを突き付けられると様々な感情が沸き上がるものなんですね…もちろん猜疑心や不信感は当然として、妙な嬉しさや痛快さまで感じましたよ。笑
きっと遠くない内に再読すると思うので、今回は要点を絞ってご紹介します。
それでも結構な長文になりそうですけど、抑え目で。
本書では錯覚を6種に大別して扱っていますが、特に最初の「注意の錯覚」がインパクトありました…何しろ目の前のゴリラに気付かないんですから、他の事柄に注意を向けている時には!
それを他人事だと思っちゃう、というのも「自信の錯覚」なんですって…知った気でいる「知識の錯覚」や経験に基づく「原因の錯覚」、関連性から思い込む「可能性の錯覚」と常に陥りがちな「記憶の錯覚」。
人類が進化の過程で伸ばした能力は、つまり選ばなかった能力を犠牲にしてたのですな…どうにか克服可能な課題などではなく、集中力や生活能力と引き換えに生じた精神構造上の盲点。
要するに個人の資質と無縁の人間らしさ、というね。
だから盗用は必ずしも悪意ではなく、医療ミスだってプロ失格じゃない訳です…悪気があって騙したんじゃなく、それが人間なのね?
僕は基本的にデータや統計といった権威ぶった数字は信じてませんし、所詮は見たい物を見て信じたい事を信じてるのが人間だろうと思ったりしてます…「たった一つの真実」なんて詭弁だし、人に絶対なんて有り得ないと思ってるのです。
故にこそ信じたいし赦さなければと思う半面、これもまた壮大なトリックでは?と受け入れ難い気持ちもあり…しかし己の記憶力を根拠に持論を主張する友人には、是非とも本書を読んで柔軟さを学んでほしいな!
因みに各章の題と小見出し(?)は、こんな感じです。
→〈9・11〉関連記事
→〈ブッシュ政権〉関連記事
以下、個人的メモ
初版'14年の文春文庫、著者はSF作家のダン・シモンズとは別人だと思います…いや案外そうなのかな、でも多分ちがうと思う。笑
それはさておき本書、ここ数年で読んだ本の中では断トツのインパクトでした。
もし仮に「自称科学者のエセ科学」だったとしても、これだけ徹底して人間の根本的な出鱈目さを突き付けられると様々な感情が沸き上がるものなんですね…もちろん猜疑心や不信感は当然として、妙な嬉しさや痛快さまで感じましたよ。笑
きっと遠くない内に再読すると思うので、今回は要点を絞ってご紹介します。
それでも結構な長文になりそうですけど、抑え目で。
本書では錯覚を6種に大別して扱っていますが、特に最初の「注意の錯覚」がインパクトありました…何しろ目の前のゴリラに気付かないんですから、他の事柄に注意を向けている時には!
それを他人事だと思っちゃう、というのも「自信の錯覚」なんですって…知った気でいる「知識の錯覚」や経験に基づく「原因の錯覚」、関連性から思い込む「可能性の錯覚」と常に陥りがちな「記憶の錯覚」。
人類が進化の過程で伸ばした能力は、つまり選ばなかった能力を犠牲にしてたのですな…どうにか克服可能な課題などではなく、集中力や生活能力と引き換えに生じた精神構造上の盲点。
要するに個人の資質と無縁の人間らしさ、というね。
だから盗用は必ずしも悪意ではなく、医療ミスだってプロ失格じゃない訳です…悪気があって騙したんじゃなく、それが人間なのね?
僕は基本的にデータや統計といった権威ぶった数字は信じてませんし、所詮は見たい物を見て信じたい事を信じてるのが人間だろうと思ったりしてます…「たった一つの真実」なんて詭弁だし、人に絶対なんて有り得ないと思ってるのです。
故にこそ信じたいし赦さなければと思う半面、これもまた壮大なトリックでは?と受け入れ難い気持ちもあり…しかし己の記憶力を根拠に持論を主張する友人には、是非とも本書を読んで柔軟さを学んでほしいな!
因みに各章の題と小見出し(?)は、こんな感じです。
実験I えひめ丸はなせ沈没したのか? 注意の錯覚
潜望鏡で海上を監視していた潜水艦長は、えひめ丸が「見えていた」のに「見落とした」という。だが、これは不思議ではない。人間は、バスケの試合に乱入したゴリラにさえ、気づくことができないのだ
実験II 捏造された「ヒラリーの戦場体験」 記憶の錯覚
ヒトは記憶を脳に定着させる時、「本当にあったこと」だけでなく、「あるべきこと」を勝手に混同させてしまう。ヒラリー・クリントンが大統領選で語った「戦場体験」のウソも、このメカニズムで作られた
実験III 冤罪証言はこうして作られた 自信の錯覚
レイプ魔の顔貌を細部までしっかり目に焼きつけた被害者女子大生は、自信たっぷりに「犯人」の顔写真を選び出した。ぶれることのない法廷供述は、完璧だった。だが、真犯人は全くの別人だったのだ
実験IV リーマンショックを招いた投資家の誤算 知識の錯覚
専門用語にご用心! 難解な言葉や概念を駆使する専門家でさえ、肝心のことがわかっていないことがしばしばある。おかしいと感じたら「なぜ?」を連発してみよう。ニセモノはすぐに馬脚をあらわす
実験V 俗説、デマゴーグ、そして陰謀論 原因の錯覚
「セックスで若返る」「9・11事件はブッシュ政権の陰謀」「ワクチン接種で自閉症になる」……根拠のない話が、なぜ定説となってしまうのか? 偶然を必然と捉えたがる人間心理の陥穽
実験VI 自己啓発、サブリミナル効果のウソ 可能性の錯覚
「モーツァルトを聞くと頭が良くなる」「潜在意識を刺激すれば消費者マインドを刺激できる」……科学実験ではことごとく否定されているこれらの説は、なぜ広く信じられているのか?
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以下、個人的メモ
“たいていの人が自分の注意力の限界にまったく気づいていない(中略)手動式携帯電話を禁止する法律は、人びとに運転中でもハンズフリーの携帯なら安全と思わせてしまう皮肉な効果もありそうだ”(p.48)
“非注意による見落としに個人のちがいが反映されるという説には、ほとんど根拠がない”(p.57)
“訓練で注意力を高めても、予想外のものに気づく助けにならないのだ。完全に予想外のものについては、いかに集中力のいい人でも(悪い人でも)気づく可能性は低い(中略)専門知識は予想外のものに気づく助けになるが、その範囲は自分の専門領域にかぎられる(中略)そしてどんな専門家も、人の注意力を過信する”(p.59)
“問題は、注意不足を証明する具体的な証拠がないこと。それが錯覚のもとである。私たちは自分自身で気づいた想定外のものは意識するが、見落としたものは意識しない。その結果、私たちが手にしているのは、自分の身の回りのできごとをちゃんと知覚できているという事実だけになる(中略)自分がまわりの世界をどれほど見落としているか、理解するのはむずかしい(そしてたいていの人が理解したがらない)”(p.66)
“つまり非注意による見落としは、注意や知覚の働きに(残念ながら)かならずついてまわる副産物なのだ(中略)つねにまわりの世界をすみずみまで知覚するようにはできていない”(p.67)
“予想外のできごとは、まれにしか起きないので予想外になるのだ。それ以上に重要なのは、予想外のものを見落としても、たいていは大事にいたらないことだ”(p.67)
“人は自分が予期するものを記憶することが多い。期待がある場面に意味を与え、その解釈が記憶に色をつける(中略)私たちはビデオカメラのようには、自分の記憶を再生できない――記憶を甦らせるたびに、実際に記憶しているものと自分が記憶したいものとが、私たちの中で入り混じる”(p.82)
“私たちは自分の記憶を、自分が見たり聞いたりしたことの正確な記録と思っているが(中略)私たちが記憶から取り出すことがらは、要約や推測などで補足されていることが多い(中略)私たちは自分の記憶を正確であり事実だと思い込むため、実際にあった事実とあとから補足されたものとを記憶の中で区別できない”(p.101)
“写真を修整するだけでべつの記憶を植えつけることができるなら、過去に手を加えれば歴史の改竄も可能になるだろう(中略)もとの写真では、男は一人だけで広い道路の真ん中に立っている。それに対して修整版では、狭い通りで戦車の両側に大勢の人がいる。この写真を見せた直後に、天安門事件の歴史的事実について訊ねると、修整写真を見た被験者たちは、事件では大勢の人が抗議に参加したと答えた”(p.105)
“実験では研究者が成人に面接をおこない、命にかかわる状態になったときの延命治療について、選択を頼んだ(中略)そして同じ被験者に十二か月後にふたたび面接し、同じ質問をした(中略)驚くべきは、希望を変更した人のうち七五パーセントが、変えたとは思っていなかったことだ。彼らは二回目の面接で自分が口にした希望は、最初のときと同じだと思っていた。以前自分が言ったことに関する記憶が、現在の希望にあわせて書き換えられていたのだ”(p.106)
“私たちは世界のなにもかもが一定で不変だと思い込む傾向がある。だが自分の考え方が変わると、それとともに記憶も変わる。数年前に書かれたリビングウィルには、尊厳死に対する当時のあなたの意思が反映されている。だが記憶の錯覚で、あなたはそこにいまの自分の気持ちが記されていると、思い込む可能性がある。重篤状態になり、意思表示ができなくなったとき、医師はその書類にもとづいて判断を下し、あなたの意思に反する処置をおこなうかもしれない”(p.107)
“あいにく人は、記憶の鮮明さとそれが感情に訴える力を、記憶の正しさの指針にする。鮮明で記憶に訴える記憶には、自信をもつのだ。そして皮肉なことに人は、ほかの人の記憶についても、当人が記憶に対して抱く自信の度合で、その正確さを判断する”(p.125)
“自信の強さは回答の正確さにつながらない。自信のある人の正解率は、自信のない人以上にはならなかった。自信は、知能とも無関係だった(中略)つまり自信は個人特有の一貫した特徴だが、知能や知識とは関係がないと言えそうだ”(p.157)
“少なくとも雑学クイズでは、二人なら一人よりいい知恵がでるということはなかった(中略)だが、ペアのほうが、参加者の自信が膨張したことはたしかだった。正解率は上らなくても、自信は高まっていたのだ(中略)グループになったとき彼らの自信が膨張し、とても成功するとは思えない無謀な行動に走った”(p.159)
“私たちはなぜ、自信をもった医師の言葉を、ためらいがちな医師の言葉より信じてしまうのか(中略)ある問題について知識があると、人は自分の判断に自信をもつ(中略)相手が示す自信の幅を知っている場合は、自信ある態度を相手の知識の目安にできる(中略)その人がふだん示す自信の度合がわからない場合、ある瞬間に示された自信が本当に実力のあらわれなのか、それとも性格なのか判断ができない”(p.166)
“知識の錯覚は自信の錯覚と似ている(中略)自分が実際以上に深くものごとを理解していると、自分の中で信じ込むことだ”(p.176)
“アルバート・アインシュタインは、「なにごとも、できるだけ単純なほうがいいが、単純化はよくない」と言ったという(中略)過去の市況推移データのパターンを予想の基準にしすぎるため、「過剰適合(あてはめすぎ)」と呼ばれる統計的欠陥が発生し、条件が変わるとほぼ完全に失敗する”(p.199)
“知識の錯覚がしつこく消えない理由の一つは、実際以上に自分は知識があると思い込んでいる専門家のほうが、もてはやされるためだ。自分の知識の限界を知る人は「降水確率は七五パーセント」というような言い方をするが、こうした限界を知らない人は確信を前面に出す”(p.227)
“たいていの人は医師が診断するときは、可能性を限定せず多くの選択肢を考えるはずだと、直感的に考える。だが、本当の意味での専門的判断で求められるのは、選択肢を沢山考えられる能力ではなく、不適切な診断をとりのぞける能力なのだ(中略)めったにない病因に注意を向けすぎるのは逆効果だ”(p.240)
“二つのものの相関関係は因果関係とはちがう(中略)錯覚の混入を見抜くための簡単な方法がある。ある二つのものの関連性を指摘する説に出会ったとき。それを実証するために実験をした場合、任意に人が集められるかどうか考えてみるのだ経済的な理由や、倫理的な理由で無作為に人を集めることが不可能に思える場合、実験はできなかったはずであり、因果関係は裏づけられないと考えていい”(p.247)
“二つのものの相関関係に因果関係を見てしまう錯覚は、物語への興味と強く結びついている。子どもたちが露骨な音楽を聞き、暴力的なゲームをするという話を聞くと、私たちはそのなりゆきを予想する。そしてそのあとで、同じ子どもたちがセックスや暴力に走ったと聞くと、そこに因果関係を読み取る。私たちはこれらの行動の因果関係を理解したと思い込むが、その理解は論理的な誤りにもとづいている(中略)歴史や日常的なできごとを解釈するとき、私たちは前のことが原因で、その後のことが起きたと考えたがる”(p.250)
しおりの数が43(引用箇所は74)と非常に多くなったので、記事ページを分けてみました。
→引用の続き
| books | 2020.03.16 Monday | comments(0) | - |